東京高等裁判所 平成3年(う)1340号 判決 1992年4月08日
主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役二年六月及び罰金一六万円に処する。
原審における未決勾留日数中四〇日を右懲役刑に算入する。
右罰金を完納することができないときは、金四〇〇〇円を一日に換算した期間、被告人を労役場に留置する。
押収してある大麻樹脂一八塊(当庁平成三年押第四一六号の1ないし7)を没収する。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人古川祐士名義の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官町田幸雄名義の答弁書にそれぞれ記載のとおりであるから、これらを引用する。
控訴趣意第一点(訴訟手続の法令違反等の主張)について
論旨は、要するに、「(1)本件において、被告人に対する司法警察員の取調べやその供述調書の作成は、総て英語の通訳人を介してなされ、被告人の母国語であるペルシャ語によるものではなかったから、国際人権法上無効であり、原判決が証拠としている被告人の司法警察員に対する各供述調書には証拠能力がない。(2)被告人は、本邦に持ち込んだ原判示大麻樹脂のうち友人のKから預かった約446.92グラム(以下「預かり分」という。)については、大麻樹脂と認識していなかったものであり、司法警察員に対しても、その旨弁解していたものであるところ、平成三年九月四日の取調べの前に、ペルシャ語の通訳人から、今のような弁解を続けていると妻のFまで逮捕されることになるから、同女を逮捕させないためには「預かり分」についても大麻樹脂と知っていた旨自白した方がよい旨脅かされ、説得されたため、Fが逮捕されるなどの事態になる不安にかられ、何としても同女に迷惑をかけることは避けたいとの気持ちから「預かり分」についても大麻樹脂の認識があった旨自白したものである。したがって、右自白を内容とする被告人の司法警察員に対する平成三年九月四日付、同月五日付、同月九日付(二通)の各供述調書は、総て脅迫又は違法な説得による自白であり、任意性に疑いがあるか、違法収集証拠として証拠能力を否定すべきものである。また、被告人の検察官に対する供述調書も、前記脅迫ないし違法な説得による被告人の心理的不安が解消されていない以上、証拠能力を肯定することができないものである。(3)右のとおり、原判決には証拠能力のない被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書を事実認定の用に供した違法があり、他に被告人の「預かり分」についての故意を認めるに足りる証拠はないから、右の違法が判決に影響することは明らかである。」というのである。
まず、右(1)の所論につき検討するに、我国において国内法としての自力執行権を有すると目されている「市民的及び政治的権利に関する国際規約」一四条三項(a)、(f)には、外国人は、その刑事上の罪の決定について、「その理解する言語で速やかにかつ詳細にその罪の性質及び理由を告げられること」、「裁判所において使用される言語を理解すること又は話すことができない場合には、無料で通訳の援助を受けること」の保障を受ける権利を有することが謳われているけれども、ここで要請されているのは、「その理解する言語」による告知や通訳であって、所論のように「母国語」によることに限定されるものではない。のみならず、これらの規定は、裁判所による刑事上の罪の決定に関するものであって、当然には公訴提起前の被疑者の取調べに適用されるものではなく、他に所論のような権利を保障した国際法上の規定も原則も見当たらない。もとより、捜査官と被疑者との間に言語の疎通がなくては取調べ自体が成り立たないから、特段の規定を俟つまでもなく、通訳を利用することは当然の事理であるが、これを被疑者の母国語に限定すべきいわれは全くないのであって、要は、捜査官と被疑者との意思の疎通が図られれば足りるのである。これを本件についてみるに、被告人は通訳人を介し「その理解する言語」である英語による取調べを受け、任意これに応じて供述しているのであって、右取調べはもとより適法であり、これによって作成された供述調書の証拠能力を否定すべきいわれはない。ちなみに、被告人の司法警察員に対する各供述調書の内容は極めて詳細かつ具体的であり、しかも、ペルシャ語の通訳を介して録取された検察官に対する供述調書の内容とも符合していることに照らせば、被告人の英語に対する理解力は、ペルシャ語に対するそれとさして遜色がなかったことが窺われる。
なお、所論は、捜査(警察)側には、ペルシャ語の通訳人がいてその利用が容易であったのに、これを避け、敢えて英語の通訳による取調べを行った旨主張するが、原審記録を調査しても、警察段階の取調べにおいて、捜査側にペルシャ語の通訳人がいて、これを容易に利用できる状況にあったとは認められないから、この所論は前提において失当といわなければならない。所論(1)は採るを得ない。
次に、右(2)の所論に鑑み、原審の記録を調査して検討すると、被告人が司法警察員に対して最初に「預かり分」が大麻樹脂であることを知りながら本邦に持ち込んだ旨供述したのは、平成三年九月四日であったことが窺われるが、この供述がなされる前に、被告人がペルシャ語の通訳人から所論のような脅迫や違法な説得を受けた形跡はなく、これを窺わせる具体的な事情も見当たらないから、所論は前提において採用するに由ないものといわなければならない。もっとも、被告人は、当審において、一部所論に副うかのような供述をしているのであるが、その内容自体に前後矛盾する点や不自然な点が多く、到底そのままには措信できない。所論(2)も採用の限りではない。
以上のとおりなので、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書の証拠能力はこれを肯認することができるものであって、原判決に所論のような訴訟手続の法令違反等の違法はなく、論旨は理由がない。
控訴趣意第二点(事実誤認の主張)について
論旨は、要するに、「原判決は、被告人が、法定の除外事由がないのに、営利の目的で、大麻樹脂合計約688.04グラムを隠匿携帯して本邦内に持ち込んだ旨認定しているが、被告人は、前記「預かり分」については大麻樹脂であることを認識していなかったものである。このことは被告人が捜査段階の当初、取調官に対して供述したとおりであって、被告人の司法警察員及び検察官に対する関係供述調書及び原審公判廷における各供述中、「預かり分」についても大麻樹脂と認識していた旨の自白は措信できない。」というのである。
しかし、原判決が挙示する被告人の原審公判廷における供述、被告人の検察官及び司法警察員(平成三年九月四日付、同月五日付、同月九日付―二通)に対する各供述調書とその余の関係証拠を総合すれば、「預かり分」についても被告人に大麻樹脂であることの認識があったことを肯認し、公訴事実全部についての有罪を認めた原判決は、正当として是認することができる。もっとも、被告人は、捜査段階の当初、「預かり分」については大麻樹脂と知らなかった旨所論に副う供述をし、当審においても改めて同趣旨の供述をしているが、これらの供述はたやすく措信できない。
所論は、被告人の司法警察員に対する供述調書中の「預かり分」についても大麻樹脂と認識していた旨の自白は、ペルシャ語の通訳人からの脅迫ないし違法な説得によってなされたものであって信用性に欠け、検察官に対する供述調書や原審公判廷の供述も同様にして信用されるべきではない、というのである。しかし、捜査段階において、被告人に対し、通訳人による脅迫ないし違法な説得がなされた疑いがないことは、既に説示したとおりである上、被告人の司法警察員及び検察官に対する関係供述調書の内容(自白)は、「預かり分」の運搬を依頼した際のKの言動や被告人がこれを引き受けた理由等について、極めて具体的で、特に不自然・不合理な点もなく、十分措信できるものと認められる。
所論は、被告人の右供述調書(自白)の内容について、被告人は、自己が観光目的の入国であることを装うための「見せ金」として使用する目的でKから一〇〇〇米ドルを借り受けたものであり、入国後この一〇〇〇ドルを日本から送金して返済すれば足りるのであるから、被告人が右一〇〇〇ドルの返済を免除されるという約束で大麻樹脂の運搬という危険な依頼を引き受ける筈はない、と主張する。
しかし、関係証拠によれば、被告人は、来日に際し、友人のKから一〇〇〇ドル(一四万トマン)を借りたほか母親や他の知人らからも合計約二〇〇〇ドルの借金をしたことが認められるから、このように金銭的に決して余裕があるとはいえない状態にあった被告人にとって、一〇〇〇ドルの返済を免れ得るということは、大きな誘惑であったと認められる。しかも、被告人は、既に、テヘラン市内で密売人から約241.12グラムの大麻樹脂(以下「自己密売分」という。)を入手し、これを日本国内に持ち込むべく準備していたものであり、そのような段階にある被告人が、そのついでにKからの依頼に応じて「預かり分」の運搬を引き受けるということも、十分に理解できるところであって、何ら不自然・不合理とは考えられず、この所論は採用できない。
次に所論は、被告人は、本邦への大麻樹脂の持ち込みに際し、「自己密売分」については、これを隠匿するためにそれなりの工夫・細工をしているのに、「預かり分」については、何らこれを隠匿しようとした形跡がないのであって、このことは被告人が「預かり分」を大麻樹脂と認識していなかったことの証左である、と主張する。
しかし、関係証拠によれば、「預かり分」は、米国製紙巻煙草のカートンケース五個の中に分散して収納され、石鹸や辞書と共に透明のビニール製手提げ袋に入れられていて、カートンケースを開いて個別に点検しない限り容易に発見し難く、かなり巧妙な方法で隠匿されていたものであるから、このケースを更に秘匿する必要性に乏しかったと認められる上、被告人は、イランを出国する時点からマレーシア、シンガポールを経て、原判示航空便で新東京国際空港に到着する約一時間前までの間、このビニール製手提げ袋と「自己密売分」を入れたフライトバッグだけは、終始自ら携帯し又は自己の身辺から離さずにいたものであり、新東京国際空港に到着するに当たり、荷物の数を減らすと共に、ビニール製手提げ袋を携行したのでは見栄えが悪く観光客であることを疑われるなどの配慮から、右手提げ袋の中から「預かり分」を含めた内容物を全部もう一つのスーツケースに移し替えたことが認められるのであって、このような被告人の「預かり分」の取扱いは、被告人が「預かり分」を大麻樹脂と認識していたことを窺わせるものとはいえても、この点の認識を欠いていたことの証左とはなし難いものである。この所論には左袒できない。
してみると、原判決が被告人の捜査段階及び原審公判廷における自白を措信した上、右自白とその余の関係証拠を総合して、被告人が、大麻樹脂合計約688.04グラムを密輸入した旨認定したことは正当であり、更に原審の記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調べの結果を参酌して検討しても、原判決に所論の事実誤認は発見できない。論旨は理由がない。
控訴趣意第三点(量刑不当の主張)について
そこで、原審の記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調べの結果をも加えて検討するに、本件は、被告人が、法定の除外事由がないのに、営利の目的で、大麻樹脂合計約688.04グラムを密輸入した(関税法違反の点は未遂)という事案であって、その取扱数量が多量である上、隠匿方法もかなり巧妙であること、被告人は、本邦で就労するために必要な紹介料に充てる金員欲しさから大麻の密輸入を企て、テヘラン市内で「自己密売分」約241.12グラムの大麻樹脂を入手し、更に、友人のKから借りた一〇〇〇ドルの返済を免除される約束で「預かり分」約446.92グラムの大麻樹脂の本邦への持ち込みを引き受けて、本件犯行に及んだものであって、動機として酌むべきものが乏しいこと等に鑑みると、被告人の刑責は、かなり重いといわなければならい。
しかしながら、他面、大麻樹脂は、総て税関段階で発見され押収されて、本邦内への害悪の拡散が未然に防止されたこと、被告人にはこれまでに前科がないこと、その他被告人の反省の態度や本国に残された家族の状況など、被告人のために酌むべき事情も認められ、これらの諸点のほか、近時におけるこの種事犯の量刑の実情を勘案すると、被告人を懲役三年及び罰金十六万円に処した原判決の量刑は、懲役刑期の点において重過ぎて不当といわざるを得ない。論旨は理由がある。
そこで、刑訴法三九七条一項、三八一条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書に従い被告事件につき更に次のとおり判決する。
原判決の認定した事実に科刑上一罪の処理及び刑種の選択の点を含めて原判決と同一の法令を適用し、その刑期及び金額の範囲内で被告人を懲役二年六月及び罰金一六万円に処し、刑法二一条を適用して原審における未決勾留日数中四〇日を右懲役刑に算入し、同法一八条により右罰金を完納することができないときは、金四〇〇〇円を一日に換算した期間、被告人を労役場に留置することとし、押収してある大麻樹脂一八塊<証拠番号略>は、大麻取締法二四条の四本文、関税法一一八条一項本文に則り、これらを被告人から没収し、原審及び当審における訴訟費用については、刑訴法一八一条一項但書を適用してこれらを被告人に負担させないこととして、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官半谷恭一 裁判官堀内信明 裁判官新田誠志)